米村太一作家インタビュー

現在個展開催中の米村太一先生にお話を伺いました!

 

―米村先生といえば時間をテーマにした写実的な女性像が思い浮かびます。モデルさんの撮影やポーズの決定はどのように行っているのですか?

ポーズに関しては、実際にこちらで考えたイメージにモデルさんを近づけていこうとすると、結構無茶が生じるんです。だから、「こういうイメージです」っていう風に伝えて、ポーズを取ってもらって。例えば、肩に手を置いてもらったりとか。そうすると、色々な置き方をしてくださるんですけど、実際モデルさんに委ねた方が1番自然な姿になるなあと。

モデルさんによって、性格というか、キャラってもちろん違って、そのあたりの自然な仕草を引き出していくのが結構難しいところではあります。

 

―伏し目がちだったり、少し目を反らしている女性像が多いですよね。

伏し目がちの方が、好きっていう感じかもしれない。ただ、伏し目がちな方が、静かな雰囲気になるから、こっちをみて、目をばっちり合わせているとちょっと主張が強いかなあと。女性の強さとか、訴えかけるようなメッセージ性のあるものだったらそれもいいと思うので、描きたい絵の雰囲気に合わせています。


女性が女性像描くときと、男性が女性像描くときって、やっぱり描き方が違って。女性は結構女の強さだったりとか、母親的な、芯の強い部分とかを表現するのに対して、男の人って女性の儚さとかをテーマにしているようなところがあって。それは先入観だったり偏見だったりするのかもしれないですけど、男が思っている女の人の理想像と、女性だけが知っている女性の強さみたいなものがあるんですよね。強さを表現するのは、もしかすると女性にしかできないことで、女性が描くことで
1番自然なものになるのかなって。

 

―なるほど。では、撮影の後の絵の制作手順を教えてください。

まず、パネルに炭酸カルシウムという成分を何度も塗って一切凹凸のない状態の支持体を作って、その上からトレーシングペーパーを置いてデッサンをとり、出来上がったものをパネルの方に転写して、墨でアウトラインを取って、ある程度の明暗をつけていく。

それが終わったら、ようやく油絵具を塗っていきます。油絵具は大きく4層に分けていて、1層目は難しいことは考えずに薄く絵具を塗って、それが乾いた後に2層目の描きおこしをしていくんですけど、この工程が初めて絵具を絵具らしく使っていく、ちゃんとそれぞれの固有の色になっていく状態ですね。その色を描いたら一旦また乾かして、もう一回色を上から重ねていきます。次にスカンブリングという技法なんですけど、白の絵具を薄く溶いたものをかけていきます。これを行うと、粗が奥に引っ込むというか。どうしても油絵具で塗り分けていくと、絵のタッチや色の変化が固くなるので、薄いすりガラスを一層挟む感じにすると色の変化がマイルドになるんですよね。その後に最後の描き込みをします。これが4層目ですね。

米村①米村②
米村③
米村④

(F6「明く手前にて」制作途中画像)

―墨も使われているんですね。細かい明暗や毛の流れの表現は目を見張るものがありますが、筆はどのようなものを使われているんですか。

そんなに色々な筆を使ったりはしないんですけど、最初から最後までずっと使うのが、ラファエルっていうメーカーの水彩筆を使います。これがものすごく使いやすくて、広い面積も細い幅のところも全部それ一本でできるんですよ。なので、その水彩筆1本と、面相筆1本と、あとはマングースの平筆を使って描いていますね。

 

―この「明く手前にて」という作品はどのようなイメージで描かれたのでしょうか。

明け方を意識したものなんですけど、撮影は冬だったんです。冬の明け方の薄暗い、気持ちがピリッとする感じというか、さあ始まる!っていう。あの感じっていうのと、これは1回目の撮影の時のものなので、さあじゃあ新しいモデルさんですね、っていう()これがまさに1枚目の写真で。そういった緊張感もあり、これから始まる「夜明け」みたいなイメージです。

米村 明く手前にて

(背景は正光画廊本店のある戸越の街並みだとか!)

 

 ―「ときおび」は2回目の撮影のときの作品だそうですね。この背景はどういうイメージで描かれたんですか。

時間の経過を肯定的に捉えた作品制作を続けているのですが、これは背景の絵具に銀箔を混ぜているんです。純金の金箔であれば酸化しませんが、それに対して銀っていうのは、どんどん酸化していってしまうんです。ただ、キラキラしてる状態の銀もすごく綺麗だし、酸化してしまった銀も、すごくかっこいい渋さがある。人も同じで、その年齢相応の、その時々の自分を美しく見せるスタイルというか、そういうものが時間の中で生きていく上で必要だと思っていて。自分のそういう年齢を重ねていく姿をきちんと受け止めて向き合うことが必要だろうなっていうのが、絵とはまた別に前提としてあったんですけど。

そう考えたときに、銀ってすごくそういう美の理論に適っているというか。キラキラしているときにはそれはそれで美しいし、時間が経過して酸化しちゃったから残念ということではなくて、酸化したらしたですごくかっこいい。時間の中で生きていく人達を連続的に捉えた時に、この銀という素材をどこかに使いたいなあと思って始めました。

米村太一 ときおび

 (P6「ときおび」)


―米村先生の作品の中で、少し異質というか、皆さん気になるのがネギをモチーフとした作品だと思うのですが。

人物画とか、静物画とか、何個かあるシリーズの中でこのネギが一番気に入っているシリーズなんです ()まず、なんでネギを描き始めたかというと、ちょうどコンセプトをものすごく推した絵画っていうものに憧れていた時期があって。最初は嫌いな野菜を3つ描くっていう、例えば一般的に子供が嫌いなピーマンとか、トマトとか、そういうものを描くシリーズだったんですけど。理由は、「3」っていう数字の身近さ。ラーメンをつくるときの3分間だったりとか、三人寄れば文殊の知恵とか、何かにつけて3ってすごくちょうどいい数字だなって。じゃあ、もしかしたら嫌いなものを3つ集めてみたら好きになるかもしれない、身近に感じられるかもしれないっていう風に思って。その中にネギも入ってて、3本のネギを描いたのが最初です。

その時、作品のコンセプトとは別に、一方向に手を大きく動かせたっていうのがすごく楽しくて。人物描いてる時の細かい作業と並行して、こう大きく動かすのが楽しくて、副産物的にネギを作るようになったんです。それから、作品としてのネギの意味をもっと深めていこうって考えた時に、ネギは主食としてテーブルに上がることはないけれど、お味噌汁にネギが入ってくると全然違ってくるところとか。スポットライトは当たらないんだけど、無いと全然違ってくるという存在感への憧れというか。その点でネギをモチーフにしています。

米村太一 ネギ

(ネギの青と白の境目の部分が好きなんだとか笑)

 

―現在、中学校で教師をされながら作家活動をされているんですよね。制作は学校が終わってから進められているんですか。

普段の1日のスケジュールは、6時に起床、7時半に出勤、家に戻るのが大体8時半から9時くらいですかね。それからご飯を食べて、30分間仮眠を取って、午前2時まで描くっていう。ただ、このスケジュールは制作の前半しか使えないんですよ。というのも、やることがはっきりしていると体力も持つんですけど、絵とにらめっこしてちょっとずつしか進められないという仕上げの段階になると、眠くてやってられない()だから、仕上げに入ってくると、仕事から帰ってきたらすぐ寝て、4時くらいに起きて、出勤までに描きます。なので、朝型か夜型か変わってくる。

 

―それはなかなか大変そうですね。元々教師を目指していたんですか?

そうではなかったですね。でも、絵を描き続けるためにどうやったら1番いいんだろうって考えた時に、教員っていうのはまず第一候補に挙がりました。高校の時の美術の先生は、貸し画廊で展示したりしてたので、先生をしながら絵を描くっていうことは、そんなに不可能なものではないんだなって。すぐ近くにそういう生き方している人がいたので。だから教師になることに抵抗はなかったですね。制作の時間が取れなくて大変だなあと思うことはありますけど、子供たちってホントに時々とんでもないことをやらかすんですよ()それがものすごい刺激になるというか。

 

―画家を志したきっかけは何だったんですか。

ずっとモノを作ることが好きだったんです。絵を描くことよりも、最初にモノを作ることから始まって。例えば小さい頃に戦隊ものとかヒーローものとかがあったときに、変身するおもちゃが欲しくなるんですよね。それで、じゃあ作るか、って()

中学校に入ると、美術「部」になるんですよね。美術部に入ると制作ジャンルが絵に偏ってきて。中学2年生のときに美術部の部長になって、美術準備室の鍵を自由に使えるようになったんですけど、先生の画集を漁っていたら、野田弘志さんの画集があって。最初写真集だと思ったのですが、油絵と書いてあって、人間ってこんなことができるの!?って、衝撃でしたね()ゴッホとかピカソとか、美術の教科書に載っている作品よりも、圧倒的に感動したというか、こんなことをできる人がいるんだっていうのと、人間ってこんな事ができるんだっていう発見と。それで、美術で生きようっていう風に思って。このリアルに描いていく表現を使って、美術で生きていこうって。

 

―最初に影響を受けたのは、野田弘志先生だったんですね。

野田弘志さんの画集を見てから、一気に油絵のことを知り始めたわけではなく、しばらく野田さん1本だったんです。でも、青木繁大賞展の図録の中に、やけにリアルな、野田さんとも違う表現とかもあって。高校を卒業して、佐賀大学に受かって、小木曽誠先生が赴任してきたのですが、小木曽先生が藝大から持ってこられた作品を見たら、あの高校の時に見た青木繁大賞展の図録に載ってる作品があって、これもまた衝撃でしたね()

 

―それで、小木曽先生の研究室に入られたんですか。

そうですね、大学34年と大学院の2年間教わりました。それまで絵描きとして生きるといっても漠然としていたんですけど、個展をするときにお金を払って場所を借りることが当たり前だったのが、企画画廊だったりとか、そういう世界が、そういう市場があるってことを先生に教えて頂きました。そこで初めて画家としての生き方に明確なビジョンを持つようになりました。

 

―最後に、今後の目標を教えてください。

とにかく、たくさんの人に自分の絵を見て頂きたいと思っています。海外での展示も興味はあります。今は時間の経過をテーマに制作していますが、それにこだわり続けるのではなく、他に自分の中ですとんと落ちるテーマが見つかったらぜひそれでやっていきたいですね。

 

―まだまだ色々な変化がありそうですね。米村先生、ありがとうございました!現在次の展覧会に向けて人物画を制作中とのことで、今後の活動も楽しみにしております